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オー・ヘンリー(O. Henry, 本名:William Sydney Porter, 1862年9月11日 - 1910年6月5日

作品
最後の一葉
眠りとの戦い
都会の敗北
改心
赤い酋長の身代金
ハーグレイヴズの一人二役
水車のある教会
千ドル
桃源郷の短期滞在客
ラッパのひびき
マディソン・スクェア千一夜物語
学校もいろいろござんす
伯爵と結婚式の客

四百万
Tobin's Palm
賢者の贈り物
A Cosmopolite In A Cafe
Between Rounds
天窓のある部屋
A Service Of Love
The Coming-Out Of Maggie
Man About Town
警官と讃美歌
An Adjustment Of Nature
Memoirs Of A Yellow Dog
アイキイのほれぐすり
黄金の神と恋の射手
お好み料理の春
緑のドア
馭者台から
An Unfinished Story
The Caliph, Cupid And The Clock
Sisters Of The Golden Circle
忙しい株式仲買人のロマンス
二十年後
美服のあだ
By Courier
家具つきの貸部屋
The Brief Debut Of Tildy


ワールド・ブックシェルフ ≫ オー・ヘンリー 
オー・ヘンリー(O. Henry, 本名:William Sydney Porter, 1862年9月11日 - 1910年6月5日)は、アメリカの小説家。主に掌編小説、短編小説を得意とし、381編の作品を残した。市民の哀歓を描き出した短編が多く欧米ではサキと並んで短編の名手と呼ばれる。映画化されたものも少なくない。
米国のノースカロライナ州グリーンズボロで、医師アルジャーノン・シドニーの息子として生まれる。3歳の時に母親が亡くなり、教育者の叔母によって育てられた。本好きではあったが、15歳で学業を離れた。

知人のすすめにより、1882年テキサスに移り住み、薬剤師、ジャーナリスト、銀行の出納係などさまざまな職を転々として数年を過ごす。1884年、テキサスのオースティンに移り住んだ後、1887年にアトール・エステスと結婚。1894年にThe Rolling Stonesという諷刺週刊紙を刊行した。しかし、あまりうまくいかず、同誌は翌年4月に廃刊となり、ヒューストン・ポストにコラムニスト兼記者として参加するようになった。


1896年、以前に働いていたオハイオ銀行の金を横領した疑いで起訴された。経営がうまくいっていなかったThe Rolling Stonesの運営費に回したと思われたのである。銀行側も周囲も好意的であったにもかかわらず、裁判が行われるオーストン行きの列車から降り、病気の妻と娘を残してニューオリンズへと逃亡した。1897年には、妻の危篤を聞きつけて家にもどった。保釈金をさらに納めて数ヶ月間は、妻の看病に徹したが、甲斐なく同年7月25日に先立たれた。1898年2月7日に懲役5年の有罪判決を受ける。この横領の真相については、かれ自身が何も語らなかったため、よくわかっていない。

服役前から掌編小説を書き始めていたが、この服役中にも多くの作品を密かに新聞社や雑誌社に送り、3作が服役期間中に出版された。刑務所での待遇は良く、獄中で薬剤師として働いていたため、監房ではなく刑務所病院で寝起きし、夜の外出許可までだされていた。模範囚として減刑され、1901年7月24日には釈放となった。

釈放された後、娘と義父母が待つピッツバーグで新しい生活を始めた。『ピッツバーグ・ディスパッチ』紙のフリーランスの記者として働く一方で、作家活動を続けたのである。

けれども、たった9ヶ月で娘のいるピッツバーグを離れ、1902年にはニューヨークへと単身移り住んだ。当時すでにニューヨークは人口400万人を誇る大都市であり、作家としての売り込みもしやすかったからである。事実、このニューヨークで多くの作品を発表、出版し、中でも『ニューヨーク・ワールド』紙とは毎週1編の作品を掲載するという契約を取り付けている。

1904年、処女作『キャベツと王様』が出版され、1906年にも『四百万』が発表された。 1905年、ヘンリーに宛てて一通の手紙が届き、それが縁で1907年11月27日、幼なじみのサラ・リンゼイ・コールマンと再婚。新居を構えると、娘のマーガレットを呼び寄せ、新しい生活を始めた。

しかし、過度の飲酒からこのころには体を壊しており、1908年には、家族はまたバラバラに生活をすることとなった。

1910年6月5日、主に過度の飲酒を原因とする肝硬変により、病院で生涯を閉じた。


作品
四百万
「賢者の贈り物」を含む短編のコレクション。


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